第8話 筆者・はやな
好きよ
あなたが・・・誰よりも
今日の分の仕事を終えようとする太陽の輝きが二人を照らす。
紅緋の色は今の彼女には眩し過ぎた。
触れ合う指先から切ないぐらいに熱い思いが伝わってくる。
ねぇ、本当はずっとあなたと手を繋ぎたかったのよ。
でも、これが最初で最後。
「陸遜、ごめんね」
あなたの優しさを信じないわけじゃない。
あなたとの未来を夢見てないわけじゃない。
それでも、私達は。
「今までずっとあなたを困らせてたよね。でも、それも終わり」
「姫?」
「縁談・・・ちゃんと真面目に考えるわ」
そしてきっとそのまま其の人の許へ嫁ぐ。
兄達はこの縁談に乗り気だった。
呉がより大きく、より早く天下へと近づく為に。
相手は荊州の中でも有名な豪族の息子。
孫家との親交も薄くはない。
今回も考えてみてくれと無理強いをするわけではなかったけれど、魏が刻々と大きくなっている今、
土地も戦力も拡大したい思いはよくわかる。
「だから・・・これが最後」
刹那、陸遜の瞳に映ったのは自分と唇を重ねる愛しい人の悲しい微笑み。
掴んでいた指先は、気づいた時には外されていた。
「もう、あなたには会わないわ」
太陽の光は、もう感じ取る事さえ出来なかった。
第9話 筆者・緋翆
「?」
今日も今日とて凌統に追われていた甘寧はふと足を止めた。
「やっと観念したか、甘寧」
「ちげーよ。おめぇ、あれ何に見える?」
甘寧の目線の先を追えば、そこには呆然と立ちつくす陸遜の姿があった。
「あぁ?お前、目まで悪くなったのか?」
陸遜だろう?と続けようとする凌統より先に、
「……あいつ、何泣いてんだ?」
とても小さく甘寧が言った。
あたりはもう黄昏時に程近く
仄暗い空はそこに立つひとの落胆や後悔、全てを表すかのように
次第に光を失っていく。
凌統には声をかけるのが躊躇われた。
「おい」
だが隣に立つ男は違ったらしい。
空気を読まないのか、はたまたその空気を打ち破る為か
立ちつくす陸遜の肩を掴んで揺さぶった。
「何があった?」
「何でも…ありませんよ」
ゆっくりと顔をあげて陸遜は微笑した。
その表情に甘寧も凌統も言葉を失う。
陸遜の本当の笑顔が極限られた場所で、極限られた人間にしか向けられないことは二人も知っていた。
それは二人が限られたその内側の人間だからだ。
けれど、この今の表情は……。
「ああ、いけませんね。少しぼんやりしていたらもうこんな時間ですか。
それで声をかけてくださったんですね?感謝します、甘寧殿」
「あ、……ああ」
痛々しいほど普通を装おうとする陸遜に二人はそれ以上言うべき言葉が見つからない。
「……おい、甘寧。…いくぞ」
「……わかってるよ」
何も訊かなくても彼がそうなった理由は、もう二人にもわかっていた。
夜に抱かれた新しい光が空に煌きはじめている。
第10話 筆者・葛葉
最初から解っていた筈だった。
姫に恋焦がれた瞬間から……
私は呉の軍師で、相手は呉の姫君。
何度この想いを断ち切ろうとしたか。
それでも、貴女が私に微笑むたびに、心の底に埋めたはずの感情が芽を覚ましてしまう。
私はそのつどどうしたらいいかわからなくなる。
姫に逢いたい。姫と話したい。姫の傍にいつも……居たい。
所詮無理なことだとわかっていても、諦めようとしても、駄目でした。
でもそんな時に、姫と仲良くなれて私は、本当に嬉しかったんです。
どれだけ願っても叶わなかった一番の願いが叶ったのですから。
ですが、
やはり神などいなかった。
縁談の話が来たのです。私は即座に断ってもらおうとしましたが、今の呉の現状。曹魏の勢い。
それらを言われると、軍師としても意見を押し切る術がありませんでした。
でも
私はまだ、諦めていなかった。姫ならいつものように断ると踏んでいたんです。
ですが、今回はそうなりませんでしたね。
あの時、私が姫に本心を話していたら、こうはならなかったでしょうね。
独りで己を嘲笑しながら陸遜は城に戻り食事もとらず、誰と言葉を交わすことなく、眠りについた。
―――その間自身がずっと涙を流していたことに
本人は気付いていなかった―――
第11話 筆者・瑠輝
その後数日、陸遜は尚香と顔を合わすことはなかった。
お互い意識的に避けていたのかもしれない。
そして、周囲の人物達も何となく二人の不和な雰囲気を嗅ぎ取ったのか、
敢えて話題に載せようとするおせっかいはいなかった。
少なくとも陸遜の周辺には、だが。
逢いたい。・・・でも、何を話したらいいのか解らない。
何を言えばいい。何を謝ればいい。
―――どうしたら、貴女は許してくれますか。
毎夜流す涙は涸れ果て、もはや一滴も流れない。
でも本当に乾ききっているのは、心の方。
・・・許して貰おうといった考え自体が、甘すぎるのだろう。
自分本位な考えで、彼女を傷つけたのは私ではないか。
終わらない自問自答を繰り返し、自分を責める彼の姿は、日に日に痩せ衰えていっている。
食事がろくに喉を通らない。むしろ、何も欲しくない。
しかし、律儀な性格からか宮城での執務は休むことが無い。
「あんなんじゃ、いつか倒れちまうって」
凌統は軍議の席で、陸遜の姿を横目で見ながらそっと呟いた。
彼のことだ・・・誰かが手を貸そうとしても、絶対断るだろう。
そして余計に無理が嵩んでいくのだ。
―――そして、最後は崩壊してしまうかもしれない。
思わず凌統は、自分の想像した言葉に戦慄した。
彼を助けられるのは、そう、彼女しかいないのだ・・・
その瞬間、部屋の戸がぱっと開いた。その場にいた全員がその方向を見る。
そして外の眩い光を背に受けて立っている人影は、鈴を振ったような美しい声でいきなりこう切り出した。
「兄様。今度の戦、私も出してちょうだい!」
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