第4話 筆者・葛葉


「姫ッ私はッ・・・!」
その時コンコンッ!と扉を叩き、呂蒙が入ってきた。
孫権から「妹を大人しくさせよ」と言われ話を聞きに来たのだった。
「尚香殿・・・。その・・・」
呂蒙が話しかけようとした途端、スルリ、と尚香は俯いたまま呂蒙の横を通り抜け、何も言わずに部屋を出て行った。
そして、陸遜も下を向いて、両手を強く握りながら黙っていた。
明らかにおかしい2人の様子を見て、ようやく呂蒙は事態が読めた。
そして、しばらくの間、黙っていた陸遜が口を開いた。
「初めて姫にお会いしたときです・・・。」
まだ自分が呉に来て間もないときでした。と陸遜は話した。

若すぎた為、周りからは相手にされず、良いようにこき使われて、軍議などには出させてもらえなかった頃、そう、まだ呂蒙殿にも会う
前のことでした。
いつものように書物を運んでいるとき、姫にお会いしたんです。その日は天気がよく暖かくて、まさに小春日和でしたね。
そして女性が桃の木の下で寝てたんです。
当時、姫のことはうわさ程度でしか聞いたこと無くて、「綺麗な人だなぁ・・・。」としか思ってなかったんです。まさか、姫だとは思いませ
んでしたが。
そして、あの日3日間は寝てなくて、すごく眠かったんです。
そのせいか、姫の服(ふわふわ素材がたっぷりの着物)が何だか布団のように見えて・・・。
何だか布に吸い込まれるような感じで・・・。桃の木の下で一緒に眠っちゃったんです・・・。

第5話 筆者・一ノ瀬颯杜

目を閉じれば、幼い日の記憶が今でも鮮明に映し出されるように。
あの頃から彼女は私の憧れでした、と陸遜は続けた―――




日が高くなり花びらや木々の隙間から木漏れ日が顔にかかる。
少年が優しい暖かさでそっと目を覚ますと、すぐ近くから可愛らしい歌声が耳をかすめた。

「…あ、起きた?」
歌声の主は、まだあどけない少女だった。
彼女は満面の笑みを見せて此方を伺う。
その姿を漸く認識したのか、夢現の世界から勢いよく連れ戻された少年は慌しく頭を下げた。

「いや…あの…すいません!!」
「あら、どうして謝るの?」
「それは…その…」
少年は、身分も何もわからない相手を目の前に眠り耽ってしまった事に謝罪したつもりではあったが
『どうして』と尋ねられると、何をどう説明していいのかわからず黙りこんでしまう。

少女は何も言わず、だが確かに困惑した表情で少年を見つめていた。
少年は間が持たず視線を泳がせる。
すると、少女の手が自分の手を握っていることに気付いた。

「あの…」
「なぁに?」

うまく言葉を伝えられずに視線で誘導すると、少女の顔が緩む。
「あ、これ?私が起きた時、実はこの状態だったのよ」
「え…」
「多分…あなたが掴んだのだと思うけど…」

目が覚めた時少し驚いたけどね、と少女は続ける。
「一度手を離したものの、あなたの寝顔が少し寂しそうに見えてもう一度繋いであげたの」
少年の顔が俄かに赤く染まる。
「照れてるの?」
いたずらな微笑がまるで挑発するように語り掛けた。
何も言い返せない事すら羞恥心を駆り立てる。

「あなたって素直じゃないのね。私、尚香って言うの!」
「しょ…!?」
「…どうかした?あなたの名前はなぁに?」

少年の頭を"おてんば姫"の噂が駆け巡る。
あの姫の名前は『尚香』ではなかったか…
目の前に存在する翡翠の双眸は間違いなくあの姫であるに違いないと、確信に変わる。
手荒ではあったが即座に握られている手を離し、膝をついた上で拳と揃える。
「どうか…この度の非礼をお許しください…!!」

姫…と少年が顔をあげると少女…――尚香が不機嫌そうに言い放った。
「私の名前は孫尚香、ただそれだけよ!あなたと友達になりたかったのに、あなたまで私を姫として扱うのね」
「しかし…」
「じゃあいいわ、その"姫"があなたの名前を聞いてるのよ」
「り…陸遜、字を伯言と申します」

不安そうな少年を他所に、尚香は陸遜の手を両手で引き寄せると、優しげに笑った。

「そう…陸遜って言うのね!ねぇ陸遜…あなたは一人じゃないわ」
「姫…?」
「寂しい時は言ってね、いつだって手を繋いでいてあげるから…ね?」




―――あの日の桃の香りは今でも覚えていますよ、と陸遜は呂蒙に向き直った。

「まったく姫らしい出会いだな」
静かでいて豪快さのある笑い方で呂蒙が笑い、陸遜が苦笑する。
「あの日から私は彼女に焦がれているのかもしれません」
「肯定はしないのか?」
「はは…呂蒙殿は人が悪い。
まだ…肯定するのが怖いんです」

呂蒙は陸遜の頭に手を置き、ぐしゃぐしゃとかき回した。栗色の髪の毛がさらさらと顔にかかってはハラリとこぼれる。
「お前は十分よくやっている。もっと自信を持ったらどうだ?とにかく暫くは姫の事をお前に任せる。姫の言葉を思い出せ」
意味ありげな言葉を残して呂蒙はその場を離れた。


「もっと自信を持て…か」

――寂しい時は言ってね、いつだって手を繋いでいてあげるから――

呟きだけが響く空間をいつしか"寂しい"と認識するようになっていた。


 第6話 筆者・瑠輝


ぽつねんと尚香は木の枝に腰掛けていた。
あれから何刻が過ぎただろう。傾きかけた太陽と彼女の視線が合う。遠くには仮縫いの途中で逃げ去った姫を探す、女官達の呼び声
がしている。


ここは、誰にも見つからない、秘密の隠れ場所。


―――それでも、何故か見つけてしまう人がいる。

彼は、いつもこうやってぼんやりしてる私を、木の根元から優しく見上げて。それから、うって変わっていきなり説教を始めるのだ。
「そんな所にいたら、危ないじゃないですか。早く降りて下さい」と。
そして私がむくれてもねばっても、彼は私が降りてくるまでずっと待っていてくれた。
たまにそれは本当に腹立たしい。でも。
彼のはしばみ色の瞳を見ると、何故か安心してしまうのだ。

いいえ、彼は私を「見つけてしまった人」。・・・今日は探しに来ないから。
来るのを待っている訳じゃない。ただ―――どうしようもなく、空しいだけ。そう、本当に厭なのは、縁談のはずなのに・・・それなの
に・・・

どうしてこんなに、彼―――陸遜が来ないだけで、こんなに寂しい気持ちになるんだろう?

尚香はそっと、その翡翠のような瞳を閉じた。
太陽が眩しいから、そう自分に言い訳して。

第7話 筆者・循


眩んだのは本当に陽の煌きにだったのか…
息の詰まる感覚に仰いだのは何を思い出したくて…?
「寂しいのは…何?」
瞬間、均衡が崩れたと反応した時には、身体は落ちていた。
視界には世界がいつもと違う風景で映り込み、「打つ…」と構えた瞬間、衝撃は違う形で表れた。
「怪我をして、貴女はまだ…私に深憂をさせたいのですか?」
途端の恐怖に…抱かれた腕に救われ、声の憶測に尚香は瞳を開いた。
「どうして…」
その微笑の意味はなんだろうか…? 哀しげだといっては駄目な、清廉な瞳。
映える針葉の現実的な色と薫りに、仰いだ陸遜の顔が印象的で…尚香は胸が痛くなった。
「…ありがとう。もう大丈夫よ、離して…」
拗ねていた自分が陸遜の優しい言葉で恥ずかしくなる。
こうして想われているのを判っていて、試している様な我儘で陸遜を困らせて…
誠実で、忠誠に真っ直ぐな陸遜だから…
その想いが怖いと感じると言ったら笑われるだろうか。と唇をかむ。
「っ、何…?」
救われた身体を離して貰えたと動揺を隠したのに、陸遜は尚香の手を掴んで離さなかった。
「貴女は…私がどんな想いで縁談を見届けていると思っているのですか?」
繋がった指先をどうしたらいいのか判らなくて、突然言われた陸遜の想いが伝う。
「…判らないなんて、言いませんよね?」
優しくその手を引かれて近付く。
記憶に繋がる指先の感覚。あどけない気持ちは今…どう変わってしまったのだろうか。
「俯かないで…」
瞼を伏せた陸遜の顔が綺麗だった。盗む様に見つめて、尚香は指先に陸遜の唇が触れたのに気付いた。
「ぁ…」
声も出ない程に尚香は切なかった。
体温の違う陸遜との接触は、尚香にとって特別なものになる。


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